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鎌 倉 宮


古都鎌倉。その北東の地、二階堂の山裾に鎮座されているのが鎌倉宮。
御祭神の大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)は延慶(えんきょう)元年(一三〇八)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生。後、比叡山延暦寺に入室、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ天台座主となられた。
当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に比叡山にて討幕の挙兵をする手筈であったが、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕えられ、隠岐島へ配流(はいる)となる。
親王は還俗して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなり楠木正成らと、幾多の苦難にも屈せず機知をもった戦いで大軍を吉野や千早城に引きつけ、一方では討幕を促した親王の令旨(りょうじ)を各地の武士に送り、中でも足利尊氏らが六波羅探題を落とし、また新田義貞も鎌倉に攻め込み鎌倉幕府は一挙に滅びてしまった。
後醍醐天皇は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により征夷大将軍になられた。しかし、足利尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士に自らを誇示した為、親王はこれを危惧(きぐ)し兵を集めたが、逆に尊氏の奸計に遭い捕えられ、鎌倉東光寺の土牢に幽閉される。時に建武元年(一三三四)十一月十五日のことであった。
建武二年七月二十三日鎌倉に攻め入った北条時行の軍に敗れた尊氏の弟、足利直義(ただよしよし)は逃れる際に、家臣に親王暗殺を命じ、親王は九ヶ月も幽閉された御身で戦うことも出来ず、御年わずか二十八歳という若さで生涯を薨(こう)じられた。
明治二年二月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに思いを馳せられ、親王のご遺志を高く称え、終焉(しゅうえん)の地
東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられ、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名付けられ、明治六年、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされた。
八月二十日は、護良親王の命日にちなんで、厳かに例祭が執り行われる。
鎌倉宮由緒、他より